プレイキャラの不可避な死について

先日、知り合いのZOEさんとBrothers – A Tale of Two Sonsをプレイしたんですけど、ちょっとネタバレになるのですがBrothersでは後半で兄がモンスターによって殺されます。
ここはムービーシーンになっていて、唐突にやられてしまうのですが、個人的にあまり脈絡も無くてどうなのと思ってしまい、残念な気持ちになってしまったんですね。
Brothersはいわゆる寓話の構造になっていて、まず旅立ちがあり、旅の途中で洗礼や試練を受け、成果を得て帰還するという流れになっています。
桃太郎とか、金太郎もこういう形ですね。

Brothersでは父の病気が旅の動機となり、兄の死を経て、成長した弟が故郷へ帰還するという話にしたいのだと思うんですが、
どうも兄の死自体が結果ありきというか、弟の成長を描きたいが為に殺しているというか、作劇上の問題で無理矢理やられているのが見えてしまって感動できないんですね。
しかも、やられ方も倒したと思ったモンスターにザシュっとやられて、かなり呆気ない。
安直かもしれませんが弟を助ける為に犠牲になるとか、そういう動機づけがあれば別だったかもしれません。兄の死自体に動機がないから心を揺さぶられない。
今までプレイできてたキャラが突然ムービー中に無理矢理やられて、ただの劣化映画にしかなってないんですよ。

例えばFF5のガラフとエクスデスのシーン。仲間の瀕死の状態でガラフは仲間を守るために立ち上がり一人でエクスデスに決戦を挑むんですね。
エクスデスに「やめなよ」と言われて、魔法を撃たれまくってHP0になっても戦える。プレイヤーが戦うを選ぶことができる。
途中でエクスデスが「いかりやにくしみでは私は倒せない」と言うと、ガラフは「いかりでも憎しみでもない…」と言いながら戦い続けるんですね。
プレイヤーとしてはガラフが戦う理由は分かるし、戦闘コマンドも選べるのでシンクロできる。ゲームと乖離せずに入りこんだままプレイできるわけです。
ガラフが戦う理由、死を選ぶ動機もちゃんと意味があるから心に刺さる。

DQ5のパパスは息子を人質に取られて、なすすべもないまま死んでいくんですがこれも戦わない理由、死ぬ理由がちゃんとある。
そもそもパパスは命令ができないNPCなので、攻撃しないまま死を選ぶのも納得できるんです。プレイアブルなキャラではないですからね。
NPCだから映画みたいな死に方でも納得できるし、心に刺さる。

プレイアブルだったキャラが突然ムービー中に殺されるというのはゲームの否定というか、放棄しているようにも感じるんですね。ゲームみたいな映画、劣化映画。
確かに不可避な死っていうのは実際あるかもしれない。
オイルライターの不始末でバーンってなったり、道を歩いていたら車にぱいーんってされたり、そういうことはあるかもしれない。
でもこれはゲームなのだから、操作できてたものが突然、操作できなくなって勝手に死ぬのはどうなのよと。

例えばマリオで目の前の穴をジャンプしようとしたら突然ムービーが始まってムービー中にカメの甲羅が飛んできてパイーンってなったり、
デモンズソウルでムービー中に岩に轢かれて死んだり。それ納得できるのって。萎えませんかと。

Brothersでも兄の死を避けられることができたら、TASさんばりの神プレイをしないと助からなかったとしても、そういうルートや可能性もあれば違ったと思うんですね。
まぁ脚本的には今まで操作していたものを突然失い、半身を失ったような喪失感、Xルートのキスショットアセロラオリオンハートアンダーブレードみたいな心境を味わわせたかったのかもしれないけど、キスショットやアララギ君は選択したことでああいう結果になったけど、Brothersは選択もクソもなくて、勝手に死んでるだけだから「はぁそうですか」としか受け取れない。
プレイヤーが選んだ選択肢でそうなっていたらゲームとしての可能性を活かせているけど、そうではない。
だから、Brothersはパズルはすごくよくできているんだけど、脚本がゲーム向けの脚本にはなっていなくて残念と感じてしまったんですね。

ただ、そういう細かいこと言ってもしょうがないというか、地球ができて46億年、46億年の歳月に比べればそんなものは些細なことでしか無くて。
いずれ何兆年後には星は燃え尽き、宇宙は熱的死を迎えるわけで、あなたの悩みなんて宇宙に比べれば本当に些細なことに過ぎないんです。
だから、そういうのもアリだよねって認める寛大な心、なんでも受けいられる寛大な心、他人を尊重できる優しい社会になれば人はもっと幸せに生きていけるかもしれない。
ありのままの自分を受け入れ、他者を尊重し、自分らしく生きて行ければインナーチャイルドの苦しみもなくなるのかもしれませんね。